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2010年09月25日

城下町散策マップ開発(5)

◆城郭の門と橋を追加
城下町散策マップに城郭の門と橋を追加した。
マップ一段落と思ったけれども、旧堀にかかる橋がないと、城の内外がつながらない。
当たり前なので、補充することにした。

三の丸と城下は、大手門、菅原門、榎門で出入りする。
二の丸にも城下との出入口として、西の門、稲荷門がある。
三の丸と二の丸は、二の丸・中の門でつながる。

本丸は二の丸で囲まれていて、表門、裏門がその出入口である。
他に、二の丸から本丸・表門へ堀を渡る土橋門がある。
いずれも橋とセットになっている。

2010年09月22日

城下町散策マップ開発(4)

◆二の丸の南部分の屋敷割り
城下町散策マップに城下の屋敷割りを追加した。
二の丸の南部分で、旧町名では、竹町、片田町、小人町、古徒士町、同心町など。
西ヶ輪と下鉄砲町、さらに藩の施設の「厩(うまや)」と「作事場」も加えた。)

南部分は、武家社会の厳格な身分制度が、よく分る屋敷割りになっている。
どこで生まれたかによって、その人生が決まる社会であった。
これが約260年間も維持されたのが江戸時代、ということになる。

◆新・古地図と現代地図と古地図
現代地図に、堀や旧町名の通りや屋敷割りを追加して、新・古地図を編集してきた。
現在の道路に合わせて、個々の屋敷割りの形、大きさ、向きを修正した。
その逆の修正もした。

どうにもマッチしないところは、あえて、ズレをそのまま残した。
現代地図に近くて、古地図の情報が程々に分れば良い、ということを目標にした。
その目標からは、新・古地図は自己採点で、甘く「合格」としておきたい。

◆新・散策ルート(バーチャル)
この新・古地図上に、いくつかの散策ルートを追加するのが、次の目標だ。
ルート自体の案は、既にできているが、どうしても現地調査が必要だ。
近日中に、新発田の探索に出かける予定を立てている。

(追記)
◆城下の西側部分は未調査
実は、城下の西側には、これまで、あまり関心がなかった。
お城の「裏側」と思っていたからであう。
現在の道路なども未調査のままになっている。

数年前に一度、西公園の周囲をさっとサイクリングしただけ。
だから、屋敷割りも追加できない。
ということを、今、深く反省している。

屋敷割りのマップ掲載を一段落しようと思って、改めて古地図を眺めた。
そして、愕然とした。なんと、
<西側部分は、過半数の侍屋敷が集中する「武家の町」>であったのだ!

細部をみると、広狭の屋敷割り部分が整然と組合されている。
これまで、雑然とした「その他の侍町」と思い込んでいた。
ここは、詳細に探訪すべきミステリー<城下町>ゾーンなのであった。

2010年09月16日

城下町散策マップ開発(3)

◆三の丸と二の丸の屋敷割り
城下町散策マップに城内の屋敷割りを追加した。
三の丸は、メインの通りに面した部分の屋敷割り。
作成済みの堀や道路とうまくマッチしないので、適宜補正した。

二の丸は、新たに入手した新発田城下の古地図を参照して作成した。
これもかなりの補正を要した。
北半分は自衛隊駐屯地であるが、<幻の二の丸>散策コースは十分に楽しめそうだ。

ま、いずれにしても屋敷割りの正確な再現は、ほとんど不可能だ。
古地図の方位、縮尺などが必ずしも統一されていないからである。
それでも屋敷割りは、<城下町>の貴重な公式情報である。

その語るところを期待して、散策マップにおおよそ再現してみた、というところ。
お堀にしても同様で、かなりアバウトである。
それでも<城下町>新発田の姿・形が、ずいぶんと浮き彫りになってきた。

◆幻の二の丸
二の丸北半分は、明治維新後に破却され、陸軍の駐屯地になった。
現在は、陸上自衛隊が駐屯していて、かつての面影は何もない。
しかし、古地図から伺えるこの部分は、なかなかに魅力的である。

「御米蔵」があるが、年貢米の搬入ルートはどうであったのか。
城下中心部を流れる新発田川を船で運び、陸揚げして西ヶ輪を通ったのかも。
こんな単純なことも、しっかり調べると、新しい発見がいろいろ出てくるものだ。

「古丸」というのがあるが、ここは新発田重家時代の新発田城跡と伝えられる。
庭園風で池もある、十分広い一角である。
このように<保存>した溝口藩の想いは何であったろうか。

「講堂」は、藩の学問所であるが、どのような学問を教えていたのだろうか。
他に、城下には<寺子屋>や江戸のような芸事指南などはあったのだろうか。
かくして、<城下町>は調べてみたくなる要素が豊富で、奥が深~い。

2010年09月15日

世相:民主党代表に菅氏再選

◆妥当な結果
14日の民主党代表選での菅氏再選は妥当であった。
国会議員の票で僅差で上回り、地方議員票と党員等の票で圧倒した。
結果的には、獲得ポイントで完勝した。

菅氏の勝因と小沢氏の敗因は、いろいろと考えられる:
・世論の傾向
・頻繁な総理交替への批判
・小沢氏の立候補の適格性への疑問
・小沢氏の政治手法、バラマキ的政策への懸念

「世論の傾向」は明確に菅氏支持で、内閣支持率も高かった。
マスコミ各社の世論調査は、繰り返されても、その数値にほとんど差がなかった。
これは、地方議員と党員・サポータの意向にも近かったようだ。

マスコミの世論調査には問題もある。
固定電話の番号からサンプリング調査するが、それが世論なのか?
その数値を報道することで、本来の<世論>を誘導しているのではないか?

「頻繁な総理交替への批判」は、ごく当然だ。
「小沢氏の立候補の適格性への疑問」も当然だ。
鳩山・小沢の<ダブル辞任>からわずか3ヶ月、何をオメオメと首相をめざすのか。

「小沢氏の政治手法、バラマキ的政策への懸念」は根強い。
<豪腕>といわれる小沢氏は、力(権力と資金力)と駆引きの政治手法が特徴だ。
今の政治には、透明な議論が求められており、古い政治手法は嫌われた。

◆代表選の総括
今回の小沢氏の立候補は、<党内クーデター>である。
ダブル辞任で権力を失い、非小沢で支持を集める菅内閣に危機感を募らせた。
権力奪取を目指し、乾坤一擲の勝負に出た<クーデター>なのだ。

今回の機会を逃すと、次の代表選は<世代交代>が必然となる。
小沢氏の年齢からして、立候補の余地すら無くなる恐れがある。
バラマキ的衆院選マニフェストへの党内支持も、まだ十分に底堅い。

勝算は十分にあったのであろう。
しかし、結果は敗北で、ポイントから見れば、無残な大敗北だ。
で、小沢氏の今後はどうなのか。

「首相になったら、命を懸ける」と、小沢氏は言った。(菅氏も言った)
その戦いに敗れたら、潔く身を処したらよいと思う。
みごとに道化役を演じた鳩山前首相と<ダブル引退>するのがまともではないのか。

◆つぎの政界へ
もはや、小沢流政治の時代ではない。
野党第一党の自民党も、すでに党役員人事で大きく若返り、世代交代している。
野党第二党の公明党も、昨年の衆院選後に小沢世代の党ではなくなった。

これら二党のいずれかと組まない限り、参院の過半数には達しない。
そのための駆引きは、小沢流ではなく、国民の前に透明でなければならない。
世論も合わせ、既に、「外堀」は埋められている。

小沢城を守るとして参集した国会議員は、200名に達した。
菅氏にわずかに及ばなかったが、相当な人数だ。
世論との大きな乖離(かいり)は、民主党内における小沢氏の影響力の強さを物語る。

それをテコに、代表再挑戦を目指す動きがあるが、戦いは既に決着している。
今後、挙党体制で内閣を支えない限り、民主党政権自体が持たない。
内閣を支持する(せざるをえない)議員が増えれば、「内堀」も埋められていく。

また、代表選で政治を停滞させた民主党の責任はきわめて重い。
誰かが責任を取るべきであり、それは敗者をおいてない。
勝者は、与えられた業務に専念すればよい。

小沢氏にはその意識は全くないようだし、周辺にもなく、マスコミもだんまりだ。
いぜんとして影響力を維持し続けようとすることに、政局政治家の本質がある。
本丸落城の前に、ここでみごとな<舞い=お仕舞>を舞って欲しいものである。

2010年09月09日

城下町参考書を読む3

◆新発田の<城下町>古地図を購入
思いもかけずに新発田の古地図を購入できた。
古地図販売のサイトで偶然見つけた貴重品。
3日に発注して、今日9日に着いた。

◇明治初年の新発田藩家中屋敷割図
 ・明治初年(1968)発行、サイズは 105×78cm
 ・\2,625

きわめて分りやすく、鮮明である。
実は、この地図をベースにしたと思われる「地図」がある。
新発田で2004年に発行された資料の表紙の背景として使われている。

散策マップの屋敷割りは、この表紙をスキャンして、参考にしたものだ。
ただ、二の丸の北側部分に資料名が被さっていて読めない。
また、全体の西と南の部分が少々欠けている。

古地図の方は完全であるが、大きいので、部分々々しかスキャンできない。
スキャン画像を下敷きにして、屋敷割りの線を引き、さらに編集してマップに加える。
大きな版なので、細部まで判別でき、ありがたく感謝、感謝。

それにしても、明治初年にこういう屋敷割り図が作成されたことは驚きだ。
新発田では、明治の廃城の前に撮影された櫓や門の写真も残されているという。
先人達の『志』に深い敬意を捧げたい。

◆古地図散歩シリーズをもう一冊
シリーズの4冊目を購入した。

◇城下町古地図散歩 6 広島・松山 山陽・四国の城下町

これも内容が充実していて、読み出すと止まらなくなる。
じっとこらえて、「岡山」の途中で閉じた。

2010年09月08日

城下町散策を考える~新・古地図で散策

◆『新・古地図』とは
<城下町>の古地図は、江戸時代に作成された絵図のような地図である。
城下の屋敷割りを主に記載しており、いわば<住宅地図>のようなもの。
正確な当時の城下の様子を知るには、貴重な史料だ。

その古地図を現代地図に重ねて表示できれれば、さぞかし便利だろうなと思っていた。
しかし、それはきわめて難しい。
古地図は、一枚の中で方位や縮尺が統一されていないためである。

結局のところ、現代地図に古地図のデータを手作業で転写するしかない。
作業は、パソコンでデジタル地図として作成する。
ところが、下敷きにする現代地図にも、実は問題がある。

現代地図には、<城下町>にとって不要なデータが多く掲載されている。
そこで、道路のみをトレースして、必要なデータは後から追加することになる。
これも手作業で、ここに古地図のデータを手作業で転写し、各種表示機能を付加する。

これを『新・古地図』と呼ぶことにする。
『新・古地図』を見れば、城郭の縄張りや町割り、<城下町>の全体像がバッチリだ。
この『新・古地図』と各種史料やデータを連動させれば、いっそう効果が期待できる。

◆新発田の『新・古地図』を試作
「城下町・新発田の散策マップ」は、徐々に『新・古地図』に近付いてきた。
当初は、写真入りのショッピングや散策のコースのマップを作成するつもりであった。
古地図から、<城下町>のデータを転写するに従って『新・古地図』化してきた。

屋敷割りの一部を入れると、侍町の『町』の顔が浮かび上がってくる。
<城下町>では、屋敷割りの広さでその『町』の<格>が分る。
どの『町』に屋敷割りされているかで、その武家の<格>が分る。

三の丸の一部、地蔵堂町、八軒町、八軒町裏の屋敷割をマップに追加した。
この順に、敷地が大→小となるのが一目瞭然だ。
屋敷割りは、<格>から見た<城下町>の構造を示す重要なキーなのである。

このマップは『新・古地図』の試作品である。
個人では作業量にも精度にも限界があるが、なかなかに楽しい作業である。
屋敷割りは、あと5~6町を追加し、<城下町>の姿の一側面を明示してみたい。

◆侍町の<バーチャル>な散策コース
萩や弘前には武家屋敷が残っているので、侍町散策コースは観光の目玉になっている。
新発田では、武家屋敷は残されていないので、そうしたコースは考えられなかった。
しかし、<バーチャル>であれば、思いもかけない「侍町散策コース」が実現する。

ただ、ここでいう<バーチャル>は、現実の『町』から遊離したものではない。
実際に散策できることが必要だ。
屋敷割りの追加と現地調査と写真が必要なので、実現にはあと1ヶ月位かかりそうだ。