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城下町・新発田を見る(上)

◆見えない城下町が見えた!
新発田をひと回りする散策コースを考えたことを、前に述べた。
けっこう良いかな、というコースをたどってみた。
しかし、全く<城下町>気分を味わえなかった。

そこで、江戸時代の屋敷割り図や旧町名の由来を調べてみた。
かなり苦労して、自分で作ったマップに、お堀や旧町名を重ねた。
旧町名は、<通り>として扱った。

すると、江戸時代の町の仕組みが鮮やかに浮き上がってきた。
三ヶ所の木戸まで入れると、これはもう立派な<城下町>マップ。
つい、上鉄砲町から大木戸を通って、新発田城下へ入って行きたくなる気分。

このマップを見れば、<城下町>新発田が実によく分る。
しかし、堀や旧町名を非表示にすると、現在の新発田に戻る。
それは、お城の一部と寺町位が残る、地方の一小都市の姿そのもの。この落差。

◆城下町とは?
この前の新発田紀行(7/17-19)から戻って、少々勉強した。
ネット検索で、他の城下町の旧町名などを調べた。
弘前、仙台、彦根、金沢、宇和島、中津などの市のHP。

それぞれ、旧町名の由来を簡単に説明しているが、読み仮名の無いところがある。
旧町名は読み順だけで並べられ、ほとんどが地図と連動していないので、分りづらい。
当該地区にある名所・旧跡を紹介しているHPもある、といったところ。

また、<城下町>を中心にしたキーワードで検索した。
結果は、ほとんどが観光案内や旅行記、城の写真、天守閣の建築的評価などであった。
中に一編だけ、<城下町>そのものにつりて論じた資料が見つかった。

某大学教授の小論文(1957年発表)で、いろいろと参考になった。
ただ、学者の論文だから、半分以上を他の学者の説の引用と批判に費やしている。
耐えて、これを読んで<城下町>の旧町名の意味するところがよく分った。

たとえば、悩みの種であった旧町名の『町』の読みは(マチ)か(チョウ)か?
長岡では、武家屋敷では(チョウ)、町屋敷では(マチ)と厳格に定められていた。
仙台では、武家屋敷では『丁』(チョウ)、町屋敷では『町』(マチ)であった。

一般的には、武家屋敷では(チョウ)、町屋敷では(マチ)だが、例外も多い。
新発田の場合は、この原則があまり当てはまらない。(別途、報告予定)
『町』の読み方から、その『町』の位置づけも見えてくる。

<城下町>の『町』の配置も、なかなかに興味深い。
各『町』の町名と配置と屋敷割りから、その町のランク付けまで分る。
全体の『町』の構成と配置で、各藩の政治的防衛的な意図を推測することもできる。

新発田は、藩の意図が明瞭で、十万石と程よい規模で、代表的な『町』がほぼ揃う。
『町』の構成・配置も実に機能的で美しく、『町』の様子を表すが旧町名もある。
回ってみたくなる散策コースがいくつも浮かんでくる<城下町>なのである。

お城本体も、本丸、二の丸、三の丸の形の妙が印象的だ。
遺された本丸の石垣や堀や櫓を見れば、往時は最高位の名城であったと推察される。
これは、ぜひコンピュータ・グラフィックスで再現したいものである。

(次回に続く)