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2008年03月29日

佐々木盛綱 ~ 7)承久の乱(願文山合戦)

◆「中央」の歴史と「地方」の歴史
教科書で習う歴史は「中央」の歴史である。
しかし、歴史は「中央」と「地方」があいまって作られていく。
そして「地方」の歴史は、個別に探求しなくては埋もれたままになる。

承久の乱に関わる加地庄の「地方」の歴史について述べる。
ひとつは、この乱の前哨戦となった願文山合戦。
2番目は、乱で幕府側・朝廷側に分裂して参軍した佐々木一族の明暗。

◆承久の乱の前哨戦
1221年、京の動きに呼応して、加地庄・菅谷寺を拠点に酒匂家賢が兵を挙げた。
60人ほどの小兵力であるが、幕府軍を背後から牽制しようとしたものである。
酒匂軍は、鎌倉から駆けつけた佐々木信実(盛綱の長子)に数日で鎮圧された。

 ◇ ◇ ◇

なぜ、菅谷寺(願文山明王護国寺)だったのか。
そこに歴史の隠れた妙がある。
偶然と必然の組合せの結果である。

①頼朝の叔父・護念上人が、偶然に加地庄に菅谷寺を建立した。
②佐々木盛綱が加地庄地頭に任ぜられた。(護念上人は盛綱にも叔父にあたる)
③加地庄の領家は大納言・坊門忠信で、後鳥羽上皇の母の縁戚。
④暗殺された三代将軍実朝の妻は、坊門忠信の妹。
⑤実朝と坊門家は菅谷寺を手厚く庇護した。
⑥酒匂家賢は坊門の家人。

 ◇ ◇ ◇

この願文山合戦は、承久の乱で幕府軍が最初に挙げた勝利となった。
信実は合戦後、越後守護・北条朝時の北陸軍に合流し、京へと向かった。
これらの功により、信実は佐々木加地氏の基礎を固めることになった。

次回は、承久の乱と佐々木一族のお話です。

2008年03月28日

佐々木盛綱 ~ 6)承久の乱(概要)

◆三代将軍実朝、暗殺される
1219年、源実朝が兄頼家の子・公暁に暗殺された。
その公暁も斬られ、幕府の実権は名実ともに北条氏(政子・義時)が手にした。
北条氏は京から、名目上の将軍を迎えることとし、幕府の継続を計った。た。

◆承久の乱
源氏が断絶で、政治の実権が朝廷に返上されると考えていた後鳥羽上皇は怒った。
鎌倉の動揺も見据えて、上皇は倒幕を決意する。
1221年、上皇は各地に宣旨を送り、主に西国からの兵を京に集めた。

鎌倉では、朝敵の汚名を恐れ、防衛戦を主張する御家人がほとんどだった。
しかし、大江広元の京へ攻め上るべし、との献言を受けた政子の「檄」で一変。
東国の御家人が一致団結し、大軍で京へ向かった。

◆幕府軍の勝利
戦いは幕府軍の圧倒的な勝利に終わった。
後鳥羽上皇は隠岐に配流となった。
承久の乱後、幕府の支配力が高まり、朝廷の皇位継承にも介入するほどになった。

次回は、承久の乱(別巻)として佐々木加地氏と乱の関係について述べます。