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佐々木盛綱 ~ 7)承久の乱(願文山合戦)

◆「中央」の歴史と「地方」の歴史
教科書で習う歴史は「中央」の歴史である。
しかし、歴史は「中央」と「地方」があいまって作られていく。
そして「地方」の歴史は、個別に探求しなくては埋もれたままになる。

承久の乱に関わる加地庄の「地方」の歴史について述べる。
ひとつは、この乱の前哨戦となった願文山合戦。
2番目は、乱で幕府側・朝廷側に分裂して参軍した佐々木一族の明暗。

◆承久の乱の前哨戦
1221年、京の動きに呼応して、加地庄・菅谷寺を拠点に酒匂家賢が兵を挙げた。
60人ほどの小兵力であるが、幕府軍を背後から牽制しようとしたものである。
酒匂軍は、鎌倉から駆けつけた佐々木信実(盛綱の長子)に数日で鎮圧された。

 ◇ ◇ ◇

なぜ、菅谷寺(願文山明王護国寺)だったのか。
そこに歴史の隠れた妙がある。
偶然と必然の組合せの結果である。

①頼朝の叔父・護念上人が、偶然に加地庄に菅谷寺を建立した。
②佐々木盛綱が加地庄地頭に任ぜられた。(護念上人は盛綱にも叔父にあたる)
③加地庄の領家は大納言・坊門忠信で、後鳥羽上皇の母の縁戚。
④暗殺された三代将軍実朝の妻は、坊門忠信の妹。
⑤実朝と坊門家は菅谷寺を手厚く庇護した。
⑥酒匂家賢は坊門の家人。

 ◇ ◇ ◇

この願文山合戦は、承久の乱で幕府軍が最初に挙げた勝利となった。
信実は合戦後、越後守護・北条朝時の北陸軍に合流し、京へと向かった。
これらの功により、信実は佐々木加地氏の基礎を固めることになった。

次回は、承久の乱と佐々木一族のお話です。