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2008年02月27日

歴史の横道2 ~ 信実・祐経・範頼の人生いろいろ

◆盛綱の嫡男佐々木信実、勘当される
信実は、盛綱の嫡男で、やはり波乱に富んだ人生を歩んだ武将である。
頼朝の没後に取上げられた加地庄を回復し、佐々木加地氏の祖となった。
信実の若き日のエピソードを紹介する。

1190年、鎌倉で双六の会が催された。
信実(当時15才)は、父が頼朝の相手をしているのを側で見ていた。
そこへ、工藤祐経(すけつね)が入ってきた。

祐経は、信実を抱きかかえて脇へどかすと、そこに座った。
怒った信実は、庭から拾った石を祐経に投げつけ、ケガをさせてしまった。
頼朝は怒り、信実は出家して逐電した。

盛綱は祐経にも非があったと弁護し、祐経も事を荒げることがなかった。
結局、盛綱が信実を勘当することで一件落着した。
頼朝の面前での傷害事件であり、信実は命拾いをしたのであった。

◆工藤祐経、曽我兄弟に討たれる
1176年、祐経は所領で争っていた伊東祐親を狙ったが、誤って嫡男河津祐泰を殺害した。
河津祐泰には、二人の幼い男の子がいた。
兄弟は母の再婚先の曽我氏に育てられながら、仇討ちの機会を待っていた。

兄弟の祖父・伊東祐親は、源平の合戦で平家側についたが敗れ、自害した。
工藤祐経は最初から頼朝につき、御家人として寵愛されていた。
1193年、幕府開設の翌年、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを催した。

この機を捉え、曽我兄弟は祐経の寝所を襲って討取った。
しかし、兄は祐経の郎等に斬られ、弟も捕らえられ死罪となった。
これが有名な「曽我兄弟の仇討ち」である。

◆源範頼、唇滅びて歯寒し
曽我兄弟の仇討ち騒動で、頼朝の消息が一時途絶えた。
鎌倉では、範頼が兄・頼朝の妻・政子に言った。
「範頼がおります。(ご安心下さい)」

これが謀反の心ありと疑われることになった。
範頼は伊豆へ幽閉され、やがて自害に追い込まれた。
雉も鳴かずば撃たれまい、とも言える。

 ◇ ◇ ◇

人生いろいろ 男もいろいろ 女だっていろいろ

2008年02月21日

佐々木盛綱 ~ 5)城氏の叛乱と盛綱

◆城氏叛乱
1201年2月、城長茂は京で鎌倉幕府打倒を画策する。
しかし、朝廷からの勅許を得られず、幕府の軍に追われた。
吉野まで逃れたが、あえなく敗死し、首は鎌倉に送られた。

一方、国許の北越後・奥山庄で、長茂の甥・資盛が挙兵する。
櫛形山脈の北端の山城・城取山(白鳥山)城を拠点に構えた。
その勢いはかなりのもので、越後・佐渡の幕府軍を手こずらせた。

◆盛綱、討伐軍の総大将に
幕府は、急遽、佐々木盛綱を討伐軍の総大将に任命する。
この時、盛綱は出家し、上野国・磯部郷に隠棲していた。
その盛綱に白羽の矢が立った。

加地庄が奥山庄の南隣であったことによるものか。
また、源平合戦における実績に期待したものか。
あるいは、京の不穏な動への備えを主にして、越後を盛綱に託したのか。

理由が何であれ、盛綱は即刻行動を起こした。
頼朝側近の御家人の「いざ、鎌倉」という血が沸き立ったのかもしれない。
険しい上越国境の山路を越えて、加地庄へ急行した。

◆戦いと城氏滅亡
盛綱は、軍勢を二手に分け、櫛形山脈の東側と西側を北進する。
資盛軍を追って、やがて鳥坂城を包囲した。
1201年4月、激しい攻防戦の末、城は陥落し、城一族は滅亡した。

この戦いで、資盛の叔母・板額(飯額?)が活躍する伝説がある。
寄せてくる盛綱の幕府軍に強弓を引いては矢を射かけ、大いに悩ませた。
落城後、板額は捕らえられ鎌倉に送られたが、武勇により助命されたという。

◆そして
乱の平定後、盛綱は再び加地庄を与えられた。
長子・信実はこの地に定着し、やがて「佐々木加地」氏を名乗ることになった。
1216年、盛綱は死去、磯部郷の松岸寺に葬られた。

次回は、承久の乱(1221)と佐々木加地氏の関わりについて述べます。

2008年02月19日

佐々木盛綱 ~ 4)鎌倉幕府の成立

◆鎌倉幕府の成立と頼朝の死
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼす。 諸国に守護・地頭を置く。
1189年、頼朝、弟義経を討ち、藤原氏も滅ぼす。
1190年、平氏が焼失させた奈良・東大寺を再建。

1192年、頼朝の征夷大将軍任命に反対していた後白河法皇が崩御。
1192年、頼朝、征夷大将軍に任ぜられ、幕府を開く。
1199年、頼朝が急死。

◆頼朝後の混乱
頼朝の死は、鎌倉幕府内に動揺を与えた。
後継の頼家は、父のような政治力はなく、独断専行の性癖で御家人達の信を損なった。
批判のホコ先は頼家側近の梶原景時に向けられ、景時は失脚し、やがて暗殺された。

佐々木盛綱は頼家に疎まれ、守護などの要職を奪われ、上野国・磯部庄に隠棲した。
頼朝の存命中とは雲泥の差である。
しかし、歴史の流れは不思議で、盛綱を再び合戦の場に引出すことになる。

◆鎌倉・京・北越後
頼朝と梶原景時の死は、北越後・奥山庄の城長茂に衝撃を与えた。
長茂は、平氏として源氏と戦ったが赦されて、引き続き奥山庄に在った。
梶原景時の庇護があったお陰である。

二人を失い、頼家や北条氏の動向から、追討される危険を感じたのであろう。
また、源氏を倒すチャンスに見えたのかもしれない。
城長茂は京で源氏追討の勅命を得ようとしたが失敗する。

次回は、城氏の叛乱と盛綱率いる追討軍の北越後での合戦について述べます。

2008年02月11日

佐々木盛綱 ~ 3)護念上人が菅谷寺を開基

◆頼朝の叔父・護念上人
護念上人は、源義朝の弟で、頼朝の叔父にあたる。
つまりは、盛綱の叔父でもある。
出家して比叡山延暦寺のある院の座主であったが、平治の乱で源氏が敗れた。

◆上人、加地庄に菅谷寺開基
危険を感じた上人は、ご本尊の頭部を笈(おい)に入れて都を逃れた。
諸国を流浪の途中、笈を松の枝にかけてひと休みしたのが、加地庄菅谷。
この松は「笈掛けの松」と呼ばれるようになった。

その場で上人は笈から発せらる天啓を受け、当地に留まることとした。
近くに庵を建て、ご本尊の頭部を安置した。(1191年?)
これが菅谷寺(現在の菅谷不動尊)の開基となった。

◆盛綱と上人、鎌倉へ
まさに歴史の偶然か、加地庄地頭の盛綱は上人のことを知り、頼朝に報告。
1195年、盛綱と上人は鎌倉を訪れて、頼朝に面会した。
頼朝の娘の病気平癒の加持祈祷を行ったりもしたが、上人は菅谷へ戻った。

◆菅谷寺の伽藍創建
1196年、頼朝の庇護を受け、菅谷寺は立派な伽藍を備える大寺となった。
上人の名声もあり、諸国がら多くの人々が押し寄せて来たという。
後の1206年、残念ながら、落雷により寺は全焼してしまった。

2008年02月10日

佐々木盛綱 ~ 2)藤戸神社を建立

◆藤戸を訪れる
盛綱は、藤戸の合戦で大手柄をたてた。
その縁もあって、備前国児島庄の地頭にも任じられていた。
平家滅亡(1185年)の3年後?に藤戸を訪れた。

盛綱は当地にある藤戸寺で、源平合戦の戦死者を弔う法要を行った。
それは源氏・平家の別のない慰霊の式であった。
盛綱はそうした心優しい人柄の武将であった。

◆斬られた漁師の母の恨み
その法要で盛綱は、一人の老婆に問い詰められる。
「私の息子は、合戦の前の晩に家を出たきり帰らなかった。
うわさでは源氏の武将に斬られたというが、お前様が手にかけたのか」

盛綱は、あの時に功名心から漁師を斬ってしまったたことを後悔していた。
老婆が漁師の母であると知り、心より詫びた上で、住居と土地を与えることとした。
それでも、漁師の母の恨みは、息子の命を奪った盛綱に会ってさらに増した。

「佐々木」憎けりゃ「笹」まで憎い。
近くの山の笹を残らず抜いて、3年で根絶やしにしてしまった。
この山はその後「笹無山」と呼ばれるようになったという。

◆藤戸神社を建立
この逸話は能や謡曲などの題材となり、盛綱は非情の悪玉とされてしまった。
しかし、盛綱は漁師の慰霊のために藤戸神社を建立(1191年?)しているのである。
神社は当初は要害山の加地城二の丸にあり、後に現在の中腹に移された。

神社には、祖である宇多天皇と大国主命を祀り、藤戸の漁師を合祀した。
以来、800年を越えて地元で護り続けられている。
平成2年、漁師の子孫の方が神社を訪れ、盛綱の心情を知って感動されたという。

2008年02月08日

佐々木盛綱 ~ 1)加地庄地頭となる

◆頼朝との血縁
盛綱の父・秀義は、近江国(滋賀県)佐々木庄に拠を置く源氏であった。
母は源義朝の妹で、盛綱と頼朝とは従兄弟の関係にある。
義経と範頼は頼朝に粛清されたが、御家人として縁者・盛綱は重用された。

◆源平合戦での手柄
盛綱は、藤戸合戦で大手柄を立てた。
恩賞で、伊予/讃岐の守護、備前藤戸庄/上野磯部郷/越後加地庄の地頭職を得た。
頼朝による大抜擢といえる。

藤戸庄は、盛綱が大手柄を立てた合戦の場で、後に訪れて鎮魂の式典を催した。
磯部郷では、盛綱が不遇期の数年を過し、墓(夫婦の五輪塔)も当地の松岸寺にある。
加地庄では、長子・信実が佐々木加地氏を名乗り、子孫は大いに活躍した。

 ◇注)
  1185年、頼朝は平家滅亡後、武家政権確立のため全国に守護・地頭を置いた。
  守護・地頭とはどういうものかを、Netで調べたが、実はよく分からない。
  ただ「泣く子と地頭には勝てぬ」という位なので、地頭には実権があったようだ。

◆加地庄地頭となる
地頭になった盛綱は、加地庄の要害山上に加地城を築いた。
手柄の元の情報の口封じで斬った漁師の慰霊のため、城内に藤戸神社を建てた。
加地城跡は往時を偲ばせ、神社は歴史を越えて地元に護られ毎年祭りも行われる。

盛綱が、とりわけ加地庄に思い入れを持ったのはなぜであろうか。
近江で生まれ、相模で育ち、西国で平家と戦った武将が、なぜ雪国・加地庄なのか。
広大な湿地が拡がっていた加地庄は、この武将の目にどう映っていたのだろうか。