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歴史の横道2 ~ 信実・祐経・範頼の人生いろいろ

◆盛綱の嫡男佐々木信実、勘当される
信実は、盛綱の嫡男で、やはり波乱に富んだ人生を歩んだ武将である。
頼朝の没後に取上げられた加地庄を回復し、佐々木加地氏の祖となった。
信実の若き日のエピソードを紹介する。

1190年、鎌倉で双六の会が催された。
信実(当時15才)は、父が頼朝の相手をしているのを側で見ていた。
そこへ、工藤祐経(すけつね)が入ってきた。

祐経は、信実を抱きかかえて脇へどかすと、そこに座った。
怒った信実は、庭から拾った石を祐経に投げつけ、ケガをさせてしまった。
頼朝は怒り、信実は出家して逐電した。

盛綱は祐経にも非があったと弁護し、祐経も事を荒げることがなかった。
結局、盛綱が信実を勘当することで一件落着した。
頼朝の面前での傷害事件であり、信実は命拾いをしたのであった。

◆工藤祐経、曽我兄弟に討たれる
1176年、祐経は所領で争っていた伊東祐親を狙ったが、誤って嫡男河津祐泰を殺害した。
河津祐泰には、二人の幼い男の子がいた。
兄弟は母の再婚先の曽我氏に育てられながら、仇討ちの機会を待っていた。

兄弟の祖父・伊東祐親は、源平の合戦で平家側についたが敗れ、自害した。
工藤祐経は最初から頼朝につき、御家人として寵愛されていた。
1193年、幕府開設の翌年、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを催した。

この機を捉え、曽我兄弟は祐経の寝所を襲って討取った。
しかし、兄は祐経の郎等に斬られ、弟も捕らえられ死罪となった。
これが有名な「曽我兄弟の仇討ち」である。

◆源範頼、唇滅びて歯寒し
曽我兄弟の仇討ち騒動で、頼朝の消息が一時途絶えた。
鎌倉では、範頼が兄・頼朝の妻・政子に言った。
「範頼がおります。(ご安心下さい)」

これが謀反の心ありと疑われることになった。
範頼は伊豆へ幽閉され、やがて自害に追い込まれた。
雉も鳴かずば撃たれまい、とも言える。

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