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2006年08月21日

第2章~2)妓王の哀しみ(下)

◆仏御前の訪れ
 こうして、春が過ぎ、夏も盛りを越え、初秋の風も吹く頃となった。 
 <たそがれ時も過ぎぬれば、竹の編戸を閉ぢふさぎ、灯かすかにかきたてて、
 親子三人念仏していたる処に、竹の編戸をほとほととうちたたく者出で来たり>
 
 尼たちは「魔物が来たのか」と恐れながらも「南無阿弥陀仏」を唱え続けて、編戸を開けた。
 そこには、魔物ではなく、仏御前が立っていた。
 妓王「これは仏御前とお見受けしますが、夢でしょうか、現(うつつ)でしょうか」
 
 仏御前「もともと私は、御前のおとりなしで、入道殿に呼び戻されました。
 それなのに私だけが残されました。ほんとうにつらいことでございました。
 いつぞやは、御前が召され、今様を歌われましたが、いずれ吾が身との思いがありました。
 
 『いづれか秋にあはではつべき』と書き置かれた筆の跡にも、そのとおりと思いました。
 その後はどちらにおいでか存じませんでしたが、尼の姿でごいっしょとお聞きしてからは、
 うらやましくてなりませんでした。お暇を願っておりましたが、お許しがでません。
 
 考えてみますと、この世の栄華は夢の中の夢のようで、楽しみ栄えても何になりましょう。
 一時の楽しみにとらわれて、後の世を知らないままに過ごすことに耐えられなくなって、
 今朝、館を忍び出てまいりました」と、かふっていた衣をのけると、尼の姿になっていた。
 
 仏御前「このように姿を変えてまいりましたので、どうぞ日頃の罪をお許し下さい。
 お許しあれば、ごいっしょに念仏を唱え、浄土の同じ蓮の上に生まれ変わりたいのです」
 妓王「まことにあなたがそこまで考えておられたたは、夢にも思いませんでした」
 
 妓王「私は、自分の不運なのに、あなたのせいと恨んでおりました。
 現世も来世もダメにしたと思っていました。、
 あなたが尼に姿を変えてお出でになったので、恨みなど消えました。
 
 私たちが尼になったのは、世間を恨み、身の不幸を嘆いたからです。 
 でも、あなたはそんな恨みとか嘆きとかをお持ちではありません。
 やっと十七になる方が、現世を厭い、浄土に生まれたいと深く願うのは、立派なお心です。
 
 あなたは私を仏道に導いてくれる善知識です。
 さあ、いっしょに往生を願いましょう」
 それから、四人は、朝夕仏前に花・香を供えて、ひたすらに念仏して極楽往生を願った。
 
◆四人の念仏往生
 やがて、四人の尼は、速い遅いはあったが、それぞれに往生を遂げたという。
 後白河法皇の長講堂の過去帳にも、『妓王、妓女、仏、とじ』といっしょに書き込まれた。
 まことに心打たれる物語である。

 ◇ ◇ ◇

◆二つの妓王寺
 京都市嵯峨野にある妓王寺は、妓王・妓女らの隠棲に因んで建てられた。
 静かなたたずまいの質素な庵。
 滋賀県野洲市にある妓王寺は、妓王・妓女の出身地に建てられた。
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2006年08月20日

第2章~2)妓王の哀しみ(中)

◆清盛、妓王を呼出し
 妓王は贈られていた手当も止められ、涙に暮れて沈んでいた。
 代わりに、仏御前の周囲が栄えた。
 やがて、その年も暮れ、翌年の春、清盛入道から妓王に使者をよこした。
 
 <いかに。其後何事かある。仏御前が余りにつれづれげに見ゆるに、
 参って今様をも歌ひ、舞いなどをも舞うて、仏なぐさめよ>
 妓王は返事をする気になれなかった。
 
 清盛「なぜ、妓王は返事をよこさぬ。来ぬのか。来ぬならそう申せ。わしにも考えがある」
 妓王の母、これを伝え聞いて、「妓王や。叱られるより、とにかく返事をなさい」
 妓王「一度じゃま者と思われたからには、二度とお会いしたくない。きついお咎めは覚悟の上です」
 
 妓王の母「仮に、お前たちは都から追い出されても、若いから何とかやっいけるでしょう。
 でも、年老いた私は、心細くて生きて行けない。親孝行と思って、仰せに従っておくれ」
 そうまで言われて、妓王は泣く泣く清盛の館へ出かけることにした。 

◆妓王、屈辱と哀しみ
 一人では心もとないので、妓女と白拍子を二人連れて行った。
 館では、ずっと下座の席に通されたので、「なんでこのような扱いを」と、妓王は悔し涙が止まらなかった。
 これを見て仏御前は、以前の席に迎えるよう清盛に乞うたが、拒まれた。
 
 清盛は、妓王の心のうちを知ろうともしなかった。
 清盛「どうだ。仏御前に今様をひとつ歌ってやってくれ」
 妓王は、来るからには仰せに背くまいと決心していたので、涙をこらえて歌った。
  
 <仏も昔は凡夫なり 我等も終(つひ)には仏なり いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそかなしけれ>
 
 (仏も昔は只の人、私たちもついには仏になれる。どちらも仏性を持っているのに、仏と凡夫に差別されるのは悲しいことよ)
 〔仏御前も以前は只の白拍子。私も仏御前のようになれるだけの白拍子。なのに仏と凡夫のように差別されるのは悲しいことよ〕
 
 泣く泣く二返歌うと、座に居並ぶ平家一門の人々は、皆感涙にむせんだ。
 清盛入道にも受けて、「この場の歌として、なかなかのものじゃ。舞いも見たいが今日は用がある。
 これからは呼び出さずとも、ここへ参って、歌と舞で仏御前をなぐさめよ」
 
 妓王は答えようもなく、涙をおさえて退出した。
 妓王「親の言うとおりにして出かけたが、二度も憂き目を見た。哀しいことよ。
 生きていれば、また憂き目を見るだろう。もう身を投げようと思う。」

◆妓王、妹・母とともに出家
 妓女も「姉が身を投げるなら、私も身を投げる」という。
 母親は「お前たちが身投げをするなら、私も身を投げましょう。 
 でも、まだ寿命のある親を死なせては、お前は往生できないよ」と、泣き口説いた。
 
 妓王は涙をこらえて「わかりました。自害は思いとどまりましょう。でも、ともかく都を離れましょう」
 そして、21歳で尼になり、嵯峨の奥の山里に質素な庵を結び、念仏を唱えて過ごし始めた。
 妓女も「共に死のうとしたのですから」と、19歳で尼になり、姉といっしょに籠り、母親もこれに続いた。

2006年08月19日

第2章~2)妓王の哀しみ(上)

◆白拍子妓王を清盛寵愛
 今様(流行り歌)と舞の名手と評判の白拍子『妓王』は、清盛入道に寵愛された。
 妹妓女・母もあやかって、厚遇された。
 京中の白拍子もこれにあやかろうと、名前に「妓」の字を入れたりするのがはやった。

◆白拍子仏御前の登場
 こうして三年経ったころ、都にまた白拍子の名手が現れた。十六歳の『仏御前』である。
 仏御前は、「有名にはなったけれど、入道殿にお呼びいただけないのは残念だ。
 芸人なのだから、こちらから売込みに行こう」と、清盛の館に出かけた。

◆仏御前、追い返される
 仏御前が来たと聞いた清盛入道は、「白拍子などが召さぬのに来るとはけしからん。
 その上、妓王もおる。そこへ神でも仏でも入れることはできぬ。 追い返せ」と命じた。
 仏御前は、やむなく、車に乗って帰ろうとした。

◆妓王のとりなし
 この様子を見ていた妓王が、「芸人が売込みに来るのは普通のことです。その上、まだ年も若いそうです。、
 それをすげなく追い返すのはあわれでなりません。私も同じ立場でありました。
 せめて、ご対面だけでもお願いいたします」と、とりなした。

 妓王がそこまでいうならと、清盛は仏御前を呼び戻し、対面した。
 清盛「妓王の強い願いで、会うことにした。今様を聴こう」
 仏御前は、みごとに歌って、一座の人々を感嘆させた。

 清盛「そなたは実に上手だ。今度は舞を見せてくれ」
 仏御前は、またも、みごとに舞いおさめた。
 清盛は、すっかり仏御前に心を奪われてしまった。

◆清盛、仏御前に乗換え
 仏御前「私は、飛び込みで伺いました者でございます。
 追い返されるところを妓王御前のおかげで、こうして機会を与えていただきました。
 私をお側に置かれましては、妓王御前がどうお思いになるでしょう。すぐにお暇いただきたく存じます」
 
 清盛「ならば、妓王に暇を出そう」
 仏御前「なんということでございましょう。
 二人共に召されることさえ心苦しく思われますのに。

 妓王御前を追い出して、私一人となれば、妓王御前に申し訳が立ちません。 
 またのお召しがあれば参上いたしますので、今日はお返しください」
 清盛「ならぬ。妓王をさっさと追い出せ」
 
 <妓王もとより思ひまうけたる道なれども、さすがに昨日今日とは思ひよらず>
 清盛がしきりにせかせるので、妓王は部屋を片付け、退出した。
 その際、襖に一首の歌を書き残した。
 
 <萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはではつべき>
 
 (芽吹くのも、枯れるのも、同じ野原の草花。いずれにしても秋には枯れ果てるのです)
 〔栄えようとしている仏御前も、捨てられる私も、所詮は同じ白拍子。いつか飽きられて、捨てられるのです〕

2006年08月11日

第2章~1)平家にあらざれば 人でなし

第2章 栄耀栄華
1)平家にあらざれば 人でなし

◆清盛、太政大臣となる
清盛は、保元・平治の乱で、天皇方の勝利に貢献し、手厚い恩賞を受け、昇進を重ねた。
1167年(仁安2)には、ついに、太政大臣になった。
しかし、病のため、太政大臣を辞し、翌年の1168年(仁安3)に、51歳で出家した。

そして、1181年(養和1)に64歳で病没するまで、独裁者として君臨する。
清盛自身だけでなく、一門も揃って栄えた。
平時忠ののたまわく、『この一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし』と。

嫡子重盛は内大臣左大将、次男宗盛は中納言右大将、三男知盛は三位中将、嫡孫維盛は四位少将。
しかるべき家柄でもないのに、兄弟で左右の大将を占めるのは、前代未聞といわれた。
その他多くの公卿・殿上人もおり、六波羅の公達(きんだち)と呼ばれた。

彼らは、位階によって禁じられた色を、宣旨を得て使用し、華美な衣装を身にまとった。
こうした公達にあやかろうと衣装・振舞を真似るのがはやった。
六波羅族とでもいうべきか。

◆禿髪(かぶろ)
権力者の悪口を陰で言うのは、世の常である。
が、清盛全盛の時は、それがなかった。
禿髪(かぶろ)という清盛の私兵組織があったからである。

「禿髪」とは、14~6歳の少年300人を組織し、
髪を「禿髪」に切りそろえ、赤い直垂(ひたたれ)の姿で、
京の街の中をパトロールさせたものである。

たまたま平家の悪口をいう者を見つけると、仲間を呼び集め、その家に乱入し、
家財を没収、当人を縛り上げて六波羅へ引き立てる。
そのため、だれもが平家の横暴を見て見ぬふり、口にしなくなってしまった。

 ◇ ◇ ◇

中国の文化大革命(1966年~)のとき、紅衛兵というのが登場した。
毛沢東思想を批判する者は、紅衛兵に摘発される。
罪状を書いた板を首に下げ、公衆の前で自己批判、職を追われ、僻地で重労働を課せられた。

◆栄耀栄華
平家は、全国66ヶ国中、30余を知行国にした。
権力も、位階も、財力も平家一門に集中した。
それは、いっそうの「おごり」への始まりであった。