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2006年07月11日

第一部第1章保元・平治の乱(2)

 第1章 保元・平治の乱で平家一人勝ち
   2)清盛、頼朝を助命し伊豆に配流
   
  ◆頼朝捕らわれる
   頼朝は、平治の乱(1159.12)で父義朝に従い、初陣を飾った。
   このとき、頼朝13歳(数え、1147.04生)。
   しかし、平家に敗れ、父兄弟と東国へ向かう。
 
   次兄頼長は、乱での傷のため美濃で自害。
   父義朝は、尾張の宿泊先で騙し討ちに遭った。
   長兄義平は京へ戻り、清盛暗殺を狙ったが、捕らわれて斬首。
 
   頼朝は雪の中で一行にはぐれ、さらに落ちのびたが、
   翌年2月、尾張で捕らえられ、六波羅に送られた。
   源氏の嫡流であり、当然、斬首となるところである。
 
  ◆頼朝の助命
   清盛は、頼朝を斬らなかった。
   継母池の禅尼(父忠盛の妻)の助命嘆願のためとされる。
   果たしてそれだけであったろうか。
   
   このときの清盛は、保元の乱に続き、平治の乱で快勝したところ。
   情勢判断、人物の見分け、決断力などで、冴えに冴えていた。
   その清盛が、頼朝を見据えた。
 
   凡庸あるいは野卑な印象であったら、斬らせたであろう。
   生かしておく価値がないといえるから、
   むしろ宿敵源氏へのはなむけともなる。
 
   頼朝には、すでに風格、気品があったのかもしれない。
   母は熱田大神宮の大宮司の娘で、その血筋の良さも感じさせたか。
   ただ者ではない!
 
   清盛にはそれが見えてしまったのかも。
   だから斬らせなかった、いや、できなかった。
   頼朝は助命、伊豆へ配流とされた。
 
  ◆清盛の決断
   清盛の決断は、
   平家にとっては、誤りであった。
   歴史にとっては、正しかった。
 
   頼朝は、ちょうど20年後(1180)、平家打倒の旗を挙げた。
   清盛は、「恩を忘れて、当家に弓を引くとは」と怒った。」
   翌年清盛は病死、まもなく平家は壇ノ浦で滅ぶ(1185)。
 
   頼朝は、日本の古代を終わらせ、中世の先駆けをなした。
   命拾いした若武者が、長じて貴族政治から武家政治へと歴史を変えた。
   清盛の決断の賜物である。
 
  ◆頼朝の報恩
   「恩知らず」と清盛にいわれたが、頼朝は恩を立派に返している。
   合戦後、洛北に潜む平家嫡流の六代が、北条時政に捕らえられた。
   この時、六代(清盛-重盛-維盛-六代)は10歳位で、斬首の運命。
   
   鎌倉へ護送の途中、駿河の千本松原でまさに斬られようとしたとき、
   文覚上人の助命嘆願を受入れた頼朝の書状が、時政に届く。
   「六代を上人に預けるように」と書かれていた。
 
   頼朝は、六代と自らの助命をどう重ねあわせていたのだろうか。
   その後も平家の残党狩りは厳しく続けられ、多くが平家が斬られた。
   六代は、頼朝生存中は無事で、その死(1199)後、斬られてしまった。

2006年07月08日

第一部第1章保元・平治の乱(1)

第一部 平家の時代
 序~祇園精舎

   祇園精舎の鐘の声
   諸行無常の響きあり
   沙羅双樹の花の色
   盛者必衰の理(ことわり)をあらはす
   おごれる人も久しからず
   ただ春の夜の夢のごとし
   猛き者も遂には滅びぬ
   ひとへに風の前の塵に同じ

    ◇ ◇ ◇

 第1章 保元・平治の乱で平家一人勝ち
   1)保元・平治の乱とは
    ◆1156年(保元1) 保元の乱
 鳥羽法皇が、1156年に崩御しました。
     法王の権威で保たれていた均衡が破れ、乱が勃発します。

     この乱には、
      ①皇位継承をめぐる後白河天皇と崇徳上皇の争い
      ②関白藤原忠通と弟頼長の確執
      ③武家勢力の動向
      ④これらに乗ずる思惑
     などが、複雑にからんでいました。

     つぎの二勢力の間の戦いとなりました。
 ○後白河天皇方
  ・関白藤原忠通
  ・信西入道(後白河の側近)
  ・平清盛一門
  ・源義朝、義平親子
  
 ●崇徳上皇方(後白河天皇の兄)
  ・藤原頼長(藤原忠通の弟)
  ・源為義(義朝の父)親子(義朝を除く)
  ・平忠正(清盛の叔父)親子

 実は、平清盛一門の帰趨は微妙でした。
 崇徳上皇の皇子は、清盛の父忠盛の乳母子だったのです。
 上皇が勝って皇子が皇位につけば、清盛は天皇の乳兄弟です。

 忠盛・清盛は、低位の武門から鳥羽法皇に引立てられました。
 鳥羽法皇の遺志は、崇徳上皇を排除することにあったのです。
 清盛の決断は、故鳥羽・後白河の天皇方でした。

 清盛一門が天皇方について、実質勝負はつきました。   
 たった四時間の戦いで、上皇方は破れます。
 義朝は奮戦し、清盛はほどほどに付き合ったといわれます。

 為義親子は義朝に、平忠正親子は清盛に、斬首されました。
 藤原頼長は、敗走中に矢傷がもとで死亡。
 崇徳上皇は、四国の讃岐へ流されました。

  ◇ ◇ ◇

 乱が終ると、源氏は半減、平家はほとんど無傷の状態です。
 論功行賞は、清盛が播磨守、他の平家にも厚いものでした。
 義朝は左馬頭(軍馬管理の長)で、大きな差がついたのです。

◆1159年(平治1) 平治の乱
 保元の乱後、政治の実権は信西入道が掌握しました。
 財力のある平家は、内裏造営などで着々と実績を挙げます。
 また、信西の筋書き通り、後白河天皇が二条天皇に譲位します。

 権力をふるう信西に、反感が募り、再び危機が生じます。
 中心は後白河の寵臣藤原信頼で、義朝と組み、機会を窺います。
 清盛の熊野参詣の隙にクーデターを起し、信西を殺害しました。

 しかし、戻った清盛の巧みな戦略で信頼・義朝は孤立します。
 幽閉されていた上皇・天皇も、清盛の機略で救出されます。
 賊軍の義朝は破れ、逃亡中に暗殺され、信頼も斬首されました。

◆二つの乱の後
 平家の外は全て消滅、あるいは権威や権力を失いました。
 平家の一人勝ちです。
 そして一門は、栄耀栄華へと一気に上りつめるるのです。

2006年07月07日

歴史~くるくる散策の目次

これからスタートする「歴史~くるくる散策~平家と源氏」の目次です。
都合により、変更することがあります。

 ◇ ◇ ◇

歴史~くるくる散策~平家と源氏

第一部 平家の時代
 序~祇園精舎

 第1章 保元・平治の乱で平家一人勝ち
   1)保元・平治の乱とは
   2)清盛、頼朝を助命し伊豆に配流
 第2章 栄耀栄華
   1)平家にあらざれば人でなし
   2)祇王の哀しみ
  第3章 おごりとかげり
   1)資盛のトラブルで怒る清盛、諌める重盛
   2)清盛の娘徳子、高倉天皇中宮となる
   3)小督の悲しみ
   4)文覚、伊豆配流、頼朝に会う
   5)平家打倒の鹿ノ谷の密議露見
   6)一門の良識、嫡男重盛の死
 第4章 源平の合戦
   1)源氏の挙兵
   2)清盛の死
   3)北越後の城長茂、信濃で義仲に敗退
   4)平家都落ち、木曽義仲入京
   5)義仲、義経等に敗れる
   6)一の谷の戦い
   7)藤戸合戦で源氏勝利(佐々木盛綱手柄)
   8)屋島の戦い
   9)壇ノ浦の戦い、平家滅亡
   10)頼朝、清盛の嫡曾孫六代を助命

第二部 源氏の時代
 第1章 頼朝武家政権の確立
   1)全国に守護・地頭を置く
   2)義経の死と奥州藤原氏滅亡
   3)佐々木盛綱、加地庄地頭となり、藤戸神社建立
   4)護念上人、菅谷寺創建
 第2章 鎌倉幕府開く
   1)頼朝、征夷大将軍に任ぜられ、幕府を開く
   2)栄西、禅宗(臨済宗)を伝える
   3)護念上人、鎌倉で頼朝に会う
 第3章 頼朝後の権力争い
   1)平家嫡系の六代斬られる
   2)北越後の城長茂・資盛の乱を佐々木盛綱追討
   3)二代将軍頼家を幽閉暗殺し、北条時政執権に
   4)北条時政失脚、義時執権に
   5)和田義盛挙兵、敗死
   6)三代将軍実朝暗殺、源氏滅亡
   7)新古今集と金槐集
 第4章 承久の乱と執権政治の確立
   1)承久の乱に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐へ流される
   2)北越後、願文山の戦いと佐々木加地氏
   3)平家物語の成立

2006年07月04日

歴史年表「源氏の時代」編ができました。

二部作の後半で、「源氏の時代」編(第1版)です。

平家は、壇ノ浦で滅びました。
源頼朝は、鎌倉幕府を開きます。
武家政権の始まりです。

<歴史年表~源氏の時代>

佐々木盛綱は、加地庄の地頭になりました。
また、頼朝の叔父・護念上人が菅谷寺を創建します。
盛綱は、藤戸で斬った漁師の慰霊のため、藤戸神社を設けました。

頼朝の死後、北条氏は、頼家・実朝を廃し、有力御家人を次々と滅ぼします。
承久の乱で公家権力を制し、ついに、執権体制を確立しました.
しかし、安定する間もなく、蒙古襲来を迎え、やがて鎌倉幕府は滅びるのです。

次回から、やっと本文の歴史に入ります。■