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2006年09月13日

第3章 おごりとかげり~1)資盛のトラブル

1)資盛のトラブルと怒る清盛、諌める重盛

◆資盛無礼、痛めつけられる (資盛=すけもり)
1170年10月、重盛の次男・資盛が家来を三十騎ほどを引連れて鷹狩りに出かけた。
当時、資盛は13歳で、すでに新三位中将で越前守であった。
薄暮れ時まで狩に興じ、六波羅への帰途についた。

折りしも、摂政・藤原基房が邸宅から参内するため、大路を進んでいた。
資盛一行がこの行列に、ばったりと出会った。
基房のお供は「何者だ。摂政殿のお出ましである。馬を下りなさい」と命じた。

資盛は平家の威光をかさにきていたし、家来も皆若く分別がなかった。
下馬の礼など聞かず、行列を駆け破ろうとした。
そこで基房のお供達は、資盛はじめ家来を馬から引きずり下ろし、散々に痛めつけた。

◆清盛怒り、重盛諌める
ほうほうのていで六波羅に戻った資盛は、祖父の清盛に訴えた。清盛は大いに怒り、、
「わが身内で、しかもまだ幼い者に恥をかかせた。世間にバカにされる。
摂政殿に仕返しをしてやろう」といった。

重盛は「相手が源氏なら一門の恥。しかし、そもそもは重盛の子供ともあろう者が、
摂政殿の行列に出会って乗物を下りない方が無作法だ」と、事件の時の家来を集め、
「今後、お前達もよく心得るように。摂政殿には私がお詫びしよう」といって帰った。

◆清盛、重盛に隠して報復
しかし、収まらない清盛は、重盛に内密で、自分に忠実な侍共を集め、命じた。
「今度、摂政殿が宮中へご出仕になる。
待ち伏せして、供の者の髻(もとどり)を切って、資盛の恥をそそげ」

兵三百余騎が摂政の行列を襲った。供の者を追い回してはその髻を切った。
摂政の車の簾を落とすなど狼藉をはたらき、ときの声をあげて六波羅へ引きあげた。
清盛は「よくぞやった」と上機嫌。

◆重盛、後始末
重盛は非常にあわて、狼藉した侍共をきびしく咎めた。
「入道がなにを命じようと、この重盛になぜ知らせなかったのか。
だいたい資盛がけしからん。栴檀(せんだん)は二葉より芳し、という。

礼儀をわきまえるべき年であるのに無礼を働き、平家の評判を落とした。
不孝至極。責任をとるべし」と、資盛を伊勢の国に追いやった。
これを聞いて、君も臣も「重盛は立派である」と感心したという。

 ◇ ◇ ◇

この事件では、清盛のおごりと独断性がいかんなく発揮された。
平家物語は「世の乱れの根本」という。
そして以後、平家に対する世の反感が高まっていく。