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2006年05月30日

豊葦原瑞穂の国

写真をクリックしてご覧下さい。
すばらしい風景でしょう。
新発田市郊外の要害山からのパノラマです。

ちょうど田植えの後の水の張られた田んぼが拡がっています。
木や家が、水面に逆さに写っています。
豊葦原瑞穂の国ですね。

左手の〆切橋のかかる川が坂井川で、右手に流れ、姫田川、加治川に合流。
この川沿いに建物の並んでいる集落が、新発田市〆切地区です。
私はここで、3~7歳(昭和20年代の前半)を過ごしました。

◆桜の長堤の想い出
当時、川のこちら側の土手は、みごとな染井吉野の桜並木でした。
加治川から延々と続く往復十里といわれた桜の長堤の片側です。
あの満開の花のトンネルは、瞼に焼き付いて消えることはありません。

しかし、昭和41年、42年の連続水害で、桜並木は消滅しました。
河川改修により、いつも夢中で遊んでいた河原も消滅しました。
生活や遊びの場として親しんだ川は、遠くに離れた存在になったようです。

◆要害山について話しましょう。
標高は165m、頂上は加地城の本丸跡です。
子供の頃は、よく登って遊んだ記憶があります。
花時には、桜並木が加治川の分と合流して、ピンクの横Y字形に見えました。

加地城は、初め城氏が築き、源平合戦後に佐々木加地氏が居城としました。
山麓に舘跡があり、戦時にはこの城で備えたのでしょう。(約800年前)
絶好の展望と要害の地であり、往時を偲ぶのも、ここでの大きな楽しみです。

登山道の途中に、平家物語「藤戸の戦い」に由来する藤戸神社があります。
その戦いで手柄をたて、当地加地庄の地頭に任ぜられた佐々木盛綱が建立。
平家物語で語る当地の歴史は、歴史ブログでまもなく連載を開始します。

戦国時代に佐々木氏の末裔新発田重家の時、上杉景勝に攻められ落城。
この後、重家は本城である旧新発田城で壮烈な最期。(約400年前)
強者どもが夢の跡、の感慨があります。

◆ふるさとの原風景
幼い頃の想い出に、現在、そして歴史や古典への想いが加わりました。
〆切で幼なじみの親戚と語り合えるのも、ありがたい我が「ふるさと」です。
年を取るのもなかなかいいものだ、と実感しています。

◆ひとつお断りを。
今年は、要害山の麓一帯が農地基盤整備の工事中です。
そのためアクセス道路が寸断されていて、登山は困難です。
写真は、昨年撮影したものです。あしからずご了承下さい。■

2006年05月26日

50ぶりのふるさと

子供の頃に食べた「笹だんご」を、また食べたい。
あんこの入った「粉菓子」がなつかしい。
パリッとした皮、ねっとりしたあんこの「もなか」もいい。

「食い気」で、厚いふるさとへのごぶさたを乗り越えた。
昭和28年から、ぐずぐずと50年が経っていた。
ふるさとの想い出は、いつもいつもなつかしかったけど。

一度訪れたら、しばらくしてからまた行こう。
他の土地をあちこち回ろう、と思ってた。
それは甘かった。お菓子も甘かった。■

2006年05月25日

ごあいさつ

このたび、ホームページをオープンしました。
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私は、昭和20年(1945)に、東京から、父の実家のある「新発田」に疎開。
それから約7年間の幼少期を当地で過ごしました。
戦後復興に皆が懸命でしたが、豊かな自然、暖かい人々の心がありました。
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50年ぶりのふるさとは、今・昔のモザイク模様。
訪れるたび、その多彩な態様を楽しませてもらっています。
この「楽しさ」をお伝えするホームページにしたいと思います。
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どうぞ、よろしくお願い申しあげます。■