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堀部安兵衛とイタリア大使館

◆『blog歴史』再開
久しぶりに『blog歴史』を再開。
まずは、知る人ぞ知る、知らない人は知らない歴史の不思議。
NHK総合TVの「ブラ・タモリ」(第十回)で放映された。

<赤穂義士>と<イタリア大使館>という異色な組合せだ。
義士の一人の堀部安兵衛の名が出て、つい画面に引き込まれた。
安兵衛は、新発田出身ゆえ耳にかかったということ。

◆赤穂義士の討入りと切腹
元禄15年12月14日(1703年1月31日)、赤穂浪士47人が吉良邸に討入りした。
討入り後、47人はいくつかの大名屋敷に分散して預けられて、幕府の沙汰を待った。
元禄16年2月4日、幕府の命により、全員切腹となった。

◆イタリア大使館と大名庭園
東京・三田にあるイタリア大使館は、元禄当時、伊予・松山藩の中屋敷であった。
明治維新後、 松方正義公爵邸になっていたが、屋敷は昭和5年3月に焼失。
関東大震災後の都市計画を進めていた政府の要請で、昭和7年、大使館が現地に移転。

大使館建設にあたり、当時残されていた大名庭園を部分的に保存することにした。
現存する江戸の大名庭園としては、きわめて貴重な存在と云われている。
当時の大使の識見に感謝しなければならない。

◆安兵衛らは松山藩に
その松山藩に預けられたのが、大石主税、堀部安兵衛ら十名(*)の義士であった。
松山藩は義士の切腹の場所を堀り上げて池とし、土で築山を作り、慰霊したという。
イタリア大使も昭和10年頃に、義士のための立派な鎮魂碑を建立している。

*)大石主税(弱冠16歳)、堀部安兵衛、木村岡右衛門、中村勘助、菅谷半之丞、
千馬三郎兵衛、不破数右衛門、大高源五、貝賀弥右衛門、岡野金右衛門。

◆歴史の連鎖
これが、堀部安兵衛とイタリア大使館との関わりのエピソードである。
安兵衛:新発田藩 → 赤穂藩 → 討入り → 松山藩 → イタリア大使館。
まことに、不思議な歴史の連鎖ではある。