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2010年の米作り見聞録考

◆2010年の反省
今年は、特に田植え以降の記事が少なくなってしまった。
書きたいことは、かなりあったはずなんだが。
反省と言い訳は次のようなもの:

 ・天候不順で、農作業と訪問のタイミングが合わなかった
 ・5月の連休中から、突如、城下町新発田にエネルギーを集中した
 ・見聞のやり方に限界を感じ、切っ先が鈍った

◆米作り見聞の限界を感じる
米作りにおいて、田植えや稲刈りはよく目立つ<イベント>である。
分りやすく展開されるから、写真やビデオのよい素材である。
いわば、『絵』になる、ということだ。

しかし、米作りは約半年間の<継続作業>である。
田植えまで、田植えの後、そして稲刈りまで、農家の作業は絶え間なく続く。
田起し、播種、育苗、水の管理、追肥、溝切り、薬剤散布、機械の手入れ、などなど。

ひとつとして欠かすことはできない。
稲は、生き物であり、自然の中で毎日成長する。
農家は、それと毎日関わり続ける。

時々、東京から出かけて、米作りの断片を切り取る。
当初は、田植えや稲刈りに夢中になった。
やがて、合い間の作業にも、眼が行くようになった。

たとえば、広く拡がる田んぼで、、炎天下、たった一人で黙々と溝切りをするHさん。
その後姿は、ひたむきに米作りにいそしむ男の背中を見せている。
あの感動の場面は、瞼にしっかりと焼き付いている。

たとえば、夕日を浴びて、田植え前のあぜを鍬で鏡のように磨き上げていた米仙人。
土を慈しむ姿は、神々しいほどの光の世界の中にあった。
あのあぜの輝きは、これも、瞼にしっかりと焼き付いている。

見えにくい地味な米作りに込められた人の心を、どれほど感じ取っていたのだろうか。
そのことに限界を感じ始めていた。
空しいというか、農家に申し訳ないというか。

ひとつの解決策は、新発田に半年間は続けて滞在し、田んぼに通うということだ。
いや、そうするしかないと確信する。
やがては、実現したいと<楽しみ>にしている。

(マスコミが流す米作りの<虚像>をぶっ飛ばしてやらねばならない)