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2009年08月25日

分づき米と家庭用精米器

◆玄米を精米する
ハサ掛け米は玄米でいただいた。
そこで、精米器を買うことにして調べてみた。
精米には、分づき米と白米がある。

分づき米(ぶづきまい)とは、玄米を精米する度合いを表わしている。
・玄米 → 3分づき → 5分づき → 7分づき → 白米
となる。それぞれは次のように精米される。

「玄米の構造」へ

◇3分づき米:果皮のすべてと種皮の一部を除いたもの。
◇5分づき米:種皮を半分程度まで除いたもの。 胚芽(はいが)は残っている。
◇7分づき米:種皮を除き、糊粉層の一部まで除いたもの。胚芽は少し失われている。

◇白   米:胚乳部分のみを残して精米したもの。

もうひとつ胚芽米というのがある。
◇胚 芽 米:胚芽を残して精米したもの。 糊粉層の一部も残る。

「胚芽米」は、特殊な精米機と精米技術を必要としている。
かつ、商品として販売するには、検定機関の認証を受ける必要があるそうだ。
しかも、一部の品種以外はまだ難しいらしい。

玄米→白米で、どんどん栄養分(特にミネラル)が失われていく。
ヌカとして捨てられている。
習慣で食べていた白米は、米のカスみたいだ、と気付かされた。

◆家庭用精米器を使う
農家から直接米を譲ってもらう場合は玄米がいい。
農家の手間もかからないし、長く保存もOK。
で、家庭用の精米器を買った。(7/5)

タイガー魔法瓶製の「RSE-A100」(5合用)で、24,800円。
3・5・7分づきと白米、それに胚芽米、無洗米のコースがある。
主に、7分づき米と白米に精米しているが、手軽で使い勝手はいい。

◆お米屋さんの精米
家庭用で満足しているが、お米屋さんのHPをいくつか見て圧倒された。
商売=プロの精米は、まるでレベルが違う。
精米はお米屋さんの「売り」で、お米の味はこれで決まる。

・米の品種、品質、乾燥度、精米時の天候などで、やり方を調整する。
・同じ米を数回精米機にかけることもある。(米の温度を上げないため)
・精米後、砕けた米をフルイで落とす。

・ハイテク機で、色の悪い米粒をはじき出す。
・胚芽米は、技術と手間を傾けて精米する。(米粒を磨き上げるイメージ)
などなど。う~ん。

◆シコシコ楽しむ
ま、お米屋さんにはとても及ばないが、マイペースの精米を楽しんでいる。
7分づき米に、玄米をスプーンで加えるといった変化技もやってみた。
玄米の粒に当たって、それを噛む感触はなかなかにいい。■

2009年08月16日

手植えに思う~伝統農法のこれから

◆仙人の田んぼと営み
仙人の米は、60年前の我が思い出の味だ。
それを再現してくれる仙人の営み。
しかし、仙人は87歳、いつまでもとはいかない。

何らかの応援体制が必要かと思ったりする。
草刈りとか稲刈り・ハサ掛けとかの、いわば力仕事は応援できるかも。
ただ、全体の営みは仙人ならではのものだ。

仙人は、一世一代の米作りと思っているのではないか。
この田んぼは、仙人が自らの思いを実現した 『理想郷』 である。
世にアピールするためのものでも、米を売るためのものでもない。

だから、人に引きついで継続しようなどということもなさそうだ。
淡々と毎年、米を作り続けている。(それだけでも大変なことだが)
その姿がまぶしく、余計なお節介は控えなくてはならない。

◆仙人を手本に
考えてみれば、60年前位までの米作りは、弥生時代と本質的には変わっていない。
仙人の米作りはこの農法(伝統農法)だ。
中でも、かつて農家が特別に吟味して作っていた米の農法だ。

これはぜひ、後世のために伝えていきたい。
そのためには、仙人を手本に、別の田んぼで伝統農法で米作りをする。
真摯な志を持ったプロの農業人がそれを営む、という構図。

しかし、仙人の場合とは異なり、「経営」が成り立つ必要がある。
「棚田」保存のためのオーナー制度のようなものが必要であろう。
極上の米を作るのであるから、オーナー希望者は十分集まると考えられる。

◆まとめ
「手植え・ハサ掛け」の伝統農業は、非効率な第一次産業の米作りではない。
むしろ、混迷する現代日本社会に活力を与えるサービス業(第三次産業)だ。
かろうじて維持すべき弱者ではなく、社会再生のエネルギーの源泉なのだ。

仙人の営みから、そう実感される。
<米>を売るだけではなく、<営みの価値>をも提供するということだ。
その視点に立てば、「経営」の成立も解決は難しくない。

 ◇ ◇ ◇

あと1ヶ月で稲刈りが始まる。
ハサ掛けが楽しみだ。
それを体感して、報告しようと思う。

(この項、完)■

2009年08月11日

手植えに思う~伝統農法の営み

◆60年前の思い出の米
仙人の米を味わいながら、ふと思った。
昔(わが幼少時=約60年前)は、米作りは全て「手植え・ハサ掛け」であった。
東京から疎開した我が家では、米の飯は十分ではなかった。芋粥や雑炊も多かった。

戦後の復興期で、米は農協を通じて全部を国が買い上げていた。
供出米と呼ばれ、何より収量が優先されていた。
米は食べられるだけで幸せな時代だった。

そんな中で、極上の米を食べた鮮烈な思い出がある。
銀シャリではなく、金シャリで、粒々が黄金色に輝いていた。
噛みしめたときの弾力ある食感と甘み、香りは忘れられない。

供出米とは別に、農家が自家用に作った特別な米だ。
大人たちの言葉を覚えている。「田んぼの土、水、日当り、肥やしが違う」
(その米を、「ぬか釜」で炊いたものだったらしい)

◆仙人との出会い
思い出の米と会いたい、という願いは、仙人との出会いで果たされた。
「ハサ掛け」をキーワードにして、親戚に依頼し、ついに仙人の田んぼを探しあてた。
親戚、そのまた親戚、いくつもの偶然があっての結果であった。

◆営みということ
以来、仙人のお話、復活した手植えの見学などで、思い出の米の本質が分かってきた。
「手植え・ハサ掛け」だけでは、米はおいしくはならない。
土、水、日当り、肥やしなどが伴ってこそ、あの米の味になる。

つまりは、伝統農法を守る仙人の「営み」である。
「営み」には、営々とひたむきに作業を続ける心がある。
よく紹介される米作り体験風景には、「営みを忘れた」イベントの危うさを感じる。

◆ぬか釜について(補足)
金シャリは、ぬか釜で炊いた飯のこと。
昔はどの農家の台所にも「かまど」があった。
釜をかけ、分厚いヒノキの蓋をして「ぬか=もみ殻」を燃料にして、飯を炊く。

コレが『ぬか釜』で、強力な火力で炊き上げると、黄金色の金シャリになる。
いずれ、仙人の米をぬか釜で炊いた金シャリを食べてみようと企んでいる。
農家のぬか釜は絶滅しているが、幸い、インターネットで入手可能だ。

現代のハイテク炊飯器は、ぬか釜を目標にしているという。
P社の炊飯器とぬか釜で、魚沼コシヒカリを炊き比べるTV番組を見たことがある。
結果は、ぬか釜の金シャリが、炊飯器に優勢勝ちだったが、おもしろい企画と思った。

ハイテクに全くひけをとらない「ぬか釜」に拍手を贈る。
「おひつ」も飯の保存(保温でなない)では、炊飯器を寄せ付けない。
仙人の営みを合わせ、日本の伝統の技の実力に敬意を表したい。

(続く)

2009年08月08日

手植えに思う~自然とともに

◆自然の恵み
仙人がこの地に田んぼを拓いたのは、50年程前(昭和30年前半)のこと。
ちょうど日本が高度成長を始めた頃で、大量の農薬と化学肥料が使われるようになった。
「これはいかん」と思ったそうだ。

以来、できるだけ自然のままに米を作り続けてきた。
水は湧き水を引いている。
無農薬・有機堆肥で土を健康に保ち、安全・安心な米を育てる。

極め付きはハサ掛けで、これがおいしい米に仕上げる。
昼の太陽の光と夜の冷気で、理想的な自然乾燥をする。
ワラ部分からウマ味成分が、地球の引力で、米に落ちてくる。

 ◇ ◇ ◇

実は、田植えには、田植え機を使っていた。
それが一昨年、故障して動かなくなった。古いのでもう部品がない。
「田植え、どうすっか」と仙人。

「なら、手で植えればいいがね」と娘さん。
「じゃ、そうすっか」と仙人。
あぁ、この父にしてこの娘あり!

こうして手植えの田植えが復活した。
残されていた田植え枠を取り出し、娘さんに手植えの手ほどきをした。
なんと、娘さんは手植え経験ゼロであった!

「手植えで米が一層うまくなった」と仙人。
縦方向の稲の株の間が田植え機より広くなり、風通しが良いいので、病虫害が減る。
稲は広く根を張り、葉を伸ばして、しっかり育つ。

◆自然の中で
手植えは、のどかな田園風景の代表であるが、実際はきびしくてきつい作業だ。
田植え枠を転がす仙人は、気合と力を込めて、泥の中を真っ直ぐに進む。
腰の構え、足の運び、手の繊細な動きは、往年の熟練の技の再現だ。洗練された美学だ。

二人の植え手女性は、日除けの帽子、ぴったりの田植え用長靴、腰に苗籠のスタイル。
枠目に苗を植えて行く。一歩また一歩の手植えは、精一杯でもスローペース。
黙々と植えていく。苗を取り分ける。時々言葉を交わす。腰を伸ばす。作業は延々と続く。

ピチャ、ピチャと手足の水音。絶え間ない小鳥のさえずり。カエルも、時にウグイスも。
あくまでも自然の音だ。
下の道路をたまに車が通る。あの強力な田植え機のエンジン音はない。

◆あれこれ
手植え風景からは、様々な思いが去来する。
感動であり、感慨であり、感傷である。
以下、脈絡なく、羅列してみた。

・自然のリズムと手植えのリズムの調和は、すばらしい「癒し」の世界に誘う。
・自然との調和の中に、日本人独自の感性、創造力、勤勉性、優しさなどの源泉がある。
・地方の片隅で、黙々と手植えにいそしむ人達がいる限り、どっこい日本は大丈夫だ。

・伝統農法による米作りには、一挙手一投足に人の心が込められている。
・伝統農法は、効率優先社会の果てしない競争とは無縁。自然に浸る悟りの境地だ。
・高齢(87歳)の仙人のカクシャクとした現役の姿は、農業の無限の可能性を示している。

(続く)

2009年08月06日

手植えに思う~非効率の極み

◆非効率、また非効率
世は、「効率」優先である。
収穫量を経費で割り、数値で判断する。
大きければ善、小さければ悪、と単純明快だ。

小さな田んぼは集約しろ、大型機械を使え、株式会社で経営しろ‥‥。
それがいやなら、農業をやめろ。
大半の農家は切り捨てられ、集約不可能な多くの田んぼは放棄される。

そこに「非効率」の米作りが輝きを放つ。
米仙人の手植え・ハサ掛けだ。
ごく小規模な田んぼ、手作業、零細経営という「非効率」の極みだ。

田植え機、コンバイン、乾燥機という花形の農業機械は使わない。
農薬は使わない。除草も手作業だ。肥料は自家製の堆肥のみ。
ほとんどの作業は仙人が一人でこなし、時々娘さんが手伝う。

◆非効率の輝き
「非効率」=「ムダ・不要」ではない。
「非効率」ゆえの価値がある。大きな付加価値がある。
手植え・ハサ掛けは、失われた『伝統のおいしい米』を作り出す。

くり返すが、現代のおいしい米とは、食事メニューのひとつにうまく納まる味だ。
メニューの最後にライス付きという扱い。米は野菜の一種と言った経済学者さえいる。
食生活の洋風化に合わせて、米は過去数十年、その流れを追ってきた。

ずっと以前までは、『伝統のおいしい米』のご飯は主食であった。
そういうご飯を食べたい人は、少なからず存在すると思う。
そういうご飯を知らない人に、ぜひ食べみてもらいたい。

◆効率優先社会の変革
官僚集権的、経済効率的な「効率」優先の画一社会は、改めなければならない。
「非効率」が「効率」と混在する多様な社会には、ゆとりとうるおいがある。
いろいろな米の味を、自由に楽しむこともできるようになる。

(続く)

2009年08月03日

ハサ掛け米はおひつと相性がいい

◆自然と自然の出会い
ハサ掛け米は、おひつと実に相性がいい。
ハサ掛け米は、米をハサに掛けて自然乾燥させたもの。
曲げわっぱは、天然杉を組み立てたもの。

このおひつにご飯を入れて、その翌日。
ハサ掛け米は、ほどよくしっとりしていて、均一に粒々。
おひつと、芯の水分までやりとりして、バランスを取っている感じだ。

機械的(電気、重油)乾燥では、表面からしか水分のやり取りができない。
乾燥してくると、おひつや隣の飯粒とひっつくこともある。
レンジで暖めても、食事中に味がだんだん落ちていく。

◆ハサ掛け米の自然乾燥の極意
刈り取って束ねた稲を逆さ(穂を下)にして、天日でじっくり乾燥させるハサ掛け。
稲刈り後に雨が多くなる越後の米作りの知恵である。
その極意は、乾燥の進むステップにある。

昼間、太陽熱に暖められて米(もみ付き)は膨張し、表面から水分が蒸発する。
夜間、気温が下がり、米粒は収縮し、芯の方の水分が乾燥した表面方向に移動する。
このステップを3週間ほど繰り返し、米はゆっくりと均一に乾燥する。

ちょうど、タオルやふきんをゆすいで固く絞っても、少したつと、また絞れるようなもの。
外から絞るだけではダメで、中から沁み出す水分を絞る必要がある。
干物なども原理は同じで、天日干しは味が違う。

加えて、ハサに掛けている間に、茎(稲わら)部分から養分が補充される。
逆さに干しているから、重力で穂の部分に落ちてくる。
そのため、うま味がいっそう増すといわれている。

◆現代農法では
機械化された現代農法では、コンバインで稲刈りをする。
刈り取りながら、米粒をそぎ取ってタンクに貯めていく。
稲わらは刻んで、後から田んぼに撒いていく。(そのまま肥料にする)

あとは乾燥機で、熱風をあてて短時間で乾燥させる。
表面から水分を蒸発させ、米粒がある比率で軽くなれば、完了。
つまり、表面が乾燥しても芯には水分が残り、不均一だ。しかもうま味の補充もない。

◆自然を生かす伝統の技
どうやら、コンバイン、乾燥機、あるいは炊飯器などでは及ばない、非効率なうま味の世界がある。
自然と共存する日本の米作りの匠の技である。
真においしい米を食べ続けるために、この技を失ってはならないと、強く思う。

2009年08月01日

ハサ掛け米がおいしく炊けた

◆ついに、おいしく炊けた
2回目の炊飯では、水を減らし過ぎた。
標準の7掛けにしたら、硬くなってしまった。
この時期では、米が乾燥しているのであろう。

3回目は、7掛け半にした。
2カップの7分づき米に、1カップ半(炊飯器目盛り)の水ということ。
コレが正解であった。

◆ハサ掛け米のおいしさ
炊飯中に、おいしい香りが漂ってくる。
やや甘みのある香りだ。
パリッと炊き上がり、粒々がしっかりしている。

ほかのコシヒカリは表面がネバネバするが、ハサ掛け米は飯粒が直接引っ付く。
よい水加減だと、この引っ付きがすごい。
しゃもじに付いたのを取ると指に付く、それを取ると取った指に付く。なかなか取れない。

そのおいしさは、食事風景を変える。
ご飯を食べては、おかずを食べることになる。昔のスタイルといえる。
ハサ掛け米は、食べ終わるまでしっとり、粒々、粘りがあって、味を楽しめる。

◆米と食生活
現代の食事は、肉や脂肪でカロリー過剰だ。メタボ的といえる。
アメリカ的な「主食のない」食事だ。パンは主食ではない。
ライスもメニューの中の One-of-Them だ。

古来の日本では「米を主食」にしていた。
ご飯を食べるために、おかずを揃えた。
味噌汁、梅干、たくわん、目刺し、納豆、佃煮、煮物、‥‥。

貧しかったし、冷蔵庫もなかったしで、皆塩っぱくて、ひたすらご飯を食べた。
カルシュウムやカロリーが不足して、背は伸びず、高血圧で胃がんが多かった。
寿命も短かった。

敗戦後、食事はアメリカ化され、経済的な豊かさにも恵まれて、現在に至った。
今、求められるのは、「おいしいご飯を主食」にした和風の食事ではないだろうか。
時々、「ハサ掛け米のご飯を楽しむ」ことは、この上ない豊かで健康な食生活と思う。